雨垂れ石を穿つ:ベンチャー起業した同級生

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 同級生が地元県内で、ベンチャービジネスを立ち上げました。地域活性化も命題に掲げており、先日、学生向けに講演もしたそうです。論語にて孔子が「三十にして立つ」とあり、もうそんな歳か、と思うわけですが、昔と今では年齢感覚が違うので、遅い早いを、そんなに焦ることはないと思いますよ。

 講演の内容に興味がある、録画を見せてほしい。そう頼んだところ「記録撮影していない」と言われまして。おい、泡沫ながらも私は出資者として、事業経過がどうであるか、閲する権利と義務と好奇心があるではないか、飯を食いながら話を聞かせろ。そうやって友人を呼び出し、会食を催しました。

 背景をお話しすると、友人は起業にあたり、クラウドファンディングで資本の一部を集めました。私にとって彼らの事業内容は、興味のカケラもない分野です。それどころか、途方もなく高い目標だと思いましたし、当初は心の中で応援するだけ、出資する気はありませんでした。しかし、せめて同級生のよしみで、私の人間関係が寄与できればと、ほうぼうに宣伝をかけました。

 すると、私同様、ほぼ全員が「そんなの上手くいくはずない」と口を揃えるのです。無理だ。不可能だ。理解できない。夢物語だ。成功例がない。そう言われ続けるうち、だんだん私も頭に血が上って「だったら見返してやろうぜ!」と、脊髄反射的に出資していました。

 当初2人での会食予定が、4人に、5人にと、仲間が集まってしまいました。このご時世、大勢で会食とは不謹慎な。そう批判される「自称・憲兵さん」もいましょう。週末夜の18時開始、20時前解散の短時間でしたが、駅前という好立地の居酒屋ですら、かつGo To Eatキャンペーンもありながら、私たちの他に来客は1組2人とは、この不景気、いずくんぞ悲嘆せんや…。新型コロナウイルス渦中、国内失業者数は約7万人。殊に、飲食店は打撃を受けた業種です。彼ら事業者、従業員およびその家族を、私財であまねく救済できる方であればどうぞ、私は両頬を打たれようと、石を投げられようと、そのお叱りを甘受しましょう。

 事業に関するヒアリングのはずが、同窓の野郎が5人も集まると、もう私たちは「少年」に戻っていました。せっかく、私は2日かけて、哲学や宗教、そこから導いたマネジメントやリーダーシップの話題を準備してきたのに、また友人たちも私にそれを期待して、さらに私もそれに応えて和服を装い、安岡正篤先生ごっこ(サービス精神)でしたが、蓋を開けると、学校で怖かった先公のモノマネ、それぞれの就職から今日までの苦労話や冒険譚、そして何よりも「今このとき」を愉しむことに終始してしまいました。

 さて、今日の本題ですが、私は発病後、古今東西の哲学書を手あたり次第、乱読してきました。書を捨てよ、街に出よ。リハビリには軽い運動が良いと言われますが、大前提として私は大のスポーツ嫌いであり、散歩さえストレスなのです。とはいえ、家中でゲームやビデオ鑑賞に興じるのは、短くとも長くは好みません。私は休職という、またとないチャンスを利用し、嫌いではない読書という修養と、ネット上での発信という実践を積むことで、自身のソフトウェア、できればハードウェアまでもアップデートし、復職後の飛躍を目指してきました。

 症状は折り返し地点、修養も道半ばですが、素直にお話しすると、どうも、西洋の哲学や宗教というのは、東洋のそれに比べて、物足りませんね。それどころか東洋哲学も、なーんだ、全ての道は、まぁた仏教に通じちゃうのか。最初っから仏陀がブッタ斬ってるんかいなと。私がまだ不勉強である証拠かもしれません。そうでもないという方がいらっしゃれば、コメントでご教示ください。

 私が哲学に踏み込んだのは、病の原因究明、治療、再発防止のためです。発病初期は、精神的な絶望感、肉体的な倦怠感、またそれが原因の精神的な絶望感というスパイラルにより、希死願望も抱きました。結論としては、哲学知識は当初、その払拭には大きく貢献せず、勉強に「没頭する」その時間だけが救済でした。その間だけ、症状を忘れられた、と表現すべきでしょうか。「ネガティブを払うはポジティブではない、没頭だ」とは、お笑いコンビ・オードリーの若林氏の言葉ですが、まことに言い得て妙です。

 当塾の「3つの目標」の第3番目に「リストラティブ化」を掲げています。改めて簡単に説明しますと、具体的な行動提案としてはオルタナティブ(代替すること)です。代替は、何でもいいから好きなことをする自分を確保する、という開拓であるのが望ましいのですが、別のことをして気持ちを逸らす、誤魔化すことも、一時的には認めざるを得ません。

 いくら消臭剤をまこうと、ウンコを取り除かずして、ウンコ臭さは終わらないでしょう。根本原因を片付けずして、何かでストレス解消などとは、マヤカシも甚だしい。ですがまずは、今、自分は苦しい。そんな「心の飢餓」を、強がらず素直に認めることが第一歩です。漢字では「明らめる(明確にする)」と書いて「あきらめる(諦める)」と読ませる。面白いものですね。ネガティブなようで、ポジティブである。満たされない原因を探すのは後で良く、満たされなさを自覚する段階では、原因はまだ必要ないはずです。

 よって結果的に、現実逃避(エスケーピズム)が防衛手段となることも、私は否定しません。私の休職も、見る人から見れば逃避です。死ぬよりマシじゃありませんか。死んだら終わりじゃない。あなたが死んでも、遺された人たちは生きますよ。そもそも脳科学的に、人間は変化をリスクとして嫌うので、保守的なのです。逃げるもまた、変化の一種。その変化を恐れ「逃げる勇気」がない人も多いのでは。別の例としては、物の数が多いと選ぶことを諦めてしまう「選択回避の法則」をご存知でしょう。何にでも果敢にトライする人のほうが、脳がバグっているのです。

 私が哲学を修めるうち、こんなことを考えました。映画『ゴッドファーザー part.2』にも「友人は近くに置け、敵はもっと近くに置け※1」という台詞がありますが、真の敵は最初から身近にある、ということです。いや、むしろ、最初から敵はいないのかもしれない。もしかして、敵は自分自身ではないのか。さすれば敵とは、自分が妄想によって作り上げた、あるいは仕立て上げた架空の産物とも、さもありなん。

 私は、仕事が原因でうつ病になりました。煩雑な業務に忙殺され、顧客との折衝にもプレッシャーがありましたが、上司や同僚との人間関係は極めて良好で、社内でいじめ、パワハラは受けていません。きっと私は、実態のない恐怖を自己生成し、自爆した、という仮説を持っています。そんな騒々しさがあるほうが、自分が努力している、必要とされている、立派である、そうした自己肯定感を保てます。それを失うことが恐怖だったかもしれません。恐怖を失うことが恐怖とは、まさに脳内麻薬です。

 さらに、自分はもっとできるはずだ。もっと努力すれば、もっと良くなる。過信とはまた異なる、言うなれば負けん気がありました。そのために改善策を練り、方策を探すなどしました。しかし、私ごときの能力は、たかが知れています。それを認める勇気がなく、許す器量もなく、大敗北ならまだ諦めがついたでしょうが、小さな歯痒さに、常にイライラしていました。

 「雨垂れ石を穿つ」といい、小さな努力も継続により成就するという、ポジティブな故事があります。ウチの家には、私が小学生の頃に種を蒔いたローズマリーのオバケ巨木がありますが、根がプランターを貫き、地面に定着し、今や移動できずにいます。雫の点滴ならまだしも、根っこという目には見えないスピードで、はたしてどうやって砕いたのか。小さな力を長くかけ続けたほうが、物質というものは思い通りの形にいくようですね。一例としては、歯列矯正でしょう。

 ともすれば、目に見えないスピードの、些細なストレスでも、常に負荷がかかっているとすれば、やがてあなたの心を砕きます。ご注意を。


自室寝台にて 合掌

※1
すなわち、目が届き、操り易いというのが意訳。孫子兵法が出典と散見されますが、誰もが「だと言われている」とするだけで、該当部分を示しておらず、まったく、いい加減ですね。私の知る限り、完全合致する文言はなく、意味として近いものに第1章計篇「兵者詭道也(中略)近而示之遠、遠而示之近」等があります。兵法三十六計の「遠交近攻」と併せて、敷衍(もしくは拡大解釈?)したものと考察します

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