なぜ「私塾」なのか?

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 教育機関の呼称は、いくつかあります。

 インターネット上、特にYouTubeでは、「○○大学」と名乗られている方たちが有名ですね。

 私は今のところ、身の丈を自覚して「私塾」と称します。だって、今はどう見ても、高等教育機関である「大学」ではないですから(苦笑)

 私はスタートラインとして、この「私塾」という呼称にこだわります。

 日本の歴史上、幕末、つまり江戸時代末期の「私塾」とは、文字通り「私立の塾」です。幕府や藩による「公立の学校」である「藩校」への対義語でした。 ですが藩校とは、その設立組織が持つ既成概念や既存主義、固定の枠に縛られた「教育」がされていたと想像します。現代の指導要領も、もしかすると同じではありませんか。

 一方で私塾とは、設立者の個性、生徒さんたちの個性、そしてその合体による、末広がりの「共育」(共に育つ)という特徴が強かったようです。

 私は、それが勉学、自己啓発や自己研鑽において理想的な形だと考えています。私の企みは「学校では教えてくれないこと」の追究です。駄洒落では、藩校への「反抗」ですね。

 学校は、将来は何になりたいんだ、と生徒に聞きます。しかし、その何になるために、どうすべきかは、深く教えてくれません。また、その何かになった後、または、なれなかった後、どうやって人生を続けていくかを深く教えてくれません。

 魚を獲ってやらず、魚の獲り方を教える。これが教育の大原則ですが、これでは、魚の獲り方を知らない子どもに「何の魚が獲りたい?」と聞くようなものです。

 ただ単に、頑張れ、負けるな、頑張れ。根拠のない根性論です。先生たちも、きっとその方法を知らないのでしょう。彼らは偶然、勉強ができて、勉強が好きで、勉強を頑張れたから先生になれた。できない人間の苦労なんか分からないだと。

 私は、それはそれで誤解だと考えます。「私たちの先生だった世代」は、頑張って勉強し、立派な仕事に就き、帰ったら休む、という「古い人生概念」の時代でした。現代では、これが少し変わってきているように感じます。

 逆に、先例の「魚の獲り方」に固執すると、先述の「藩校」と同様に、そのカリキュラムの枠に縛られてしまい、生徒個人の自由な進路に障害となる恐れもあります。だからこそ先生も、まずは生徒の自由な発想を聞くべく、何も教えない可能性もあります。

 ですがせめて「ここにこんな魚がいる」といった、ちょうど良い検討素材を、最初に提供できれば理想的ですが。沖縄旅行した際、釣竿を借りたのですが、釣具屋さんが「地図」をくれたのです。例えば、イシダイが釣りたいなら、店員さんにどこへ行き、どの道具が適切かを教えてもらうことができます。そういうことです。この点はまたの機会に、詳しく話せればと思います。

 そういえば、この私塾の計画段階では「未だ立身出世もせず、病気で休職中の貧乏人が、何が私塾だ、何が老師だ」と、ばかにされもしました。ひどい言い草ですが、事実です。さらにランク下げて、浪人(失業武士)が読み書き、そろばんという基礎教養を教えていた「寺子屋」と謙称すべきでしょうね(泣)

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 猛暑日の自室机上にて。合掌

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