人を死に至らしむる病、自殺の防止に関し

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有名芸能人の自殺。混沌とした社会の中で、自殺を防ぐ方法とは何か。

残念ながら、特効薬は「無い」。

なぜなら、雑菌やウイルスと異なり、人の性格と環境のパターン、そんなの掛け算の数だけ、悩みや原因があるからだ。対処法として、経済回復など、統計上の傾向は存在する。しかし、それが全員に共通するとは限らない。私も、うつ病であるが、相手にはあり、私にはない症状がある。その逆も、しかり。また、ないと思ったら、後から出た症状もある。人の悩みは、恒河沙(ガンジス河の砂粒)の形の数ほど異なる。それを丸っと一度に解決できる原理を発明すれば、ノーベル賞だ。

感化されて自殺が増えるから、過激な報道を控えよとのWHO、政府ガイドラインは、大前提として賛同する。だが一方で、芸能人だから「報道してもらえる」のだ。一般人は、昨日も今日も、人知れず自殺している。私の知人、知人の知人もそうだ。一人は外国人で、家族はコロナ下で、来日も叶わず、荼毘にも立ち会えず、遺骨は果たして無事に祖国へ還れたのか。行政と報道の責務は、自死に至った経緯をよく分析し、同じ悲劇を招かない方法、それこそ先ほどのノーベル賞ものの方法を編み出すことだ。

ところが、ところが、大衆は、そういった小難しい問題に向き合わない。

YouTubeをご覧なさい。特にビジネス系は近頃、有料サロン化、クローズド化が活発だ。それは、小難しい話題の再生回数が伸びず、アルゴリズムで表示順位が落とされ、マネタイズに支障をきたし、なのに罵詈雑言を浴びされ放題だからだ。運営側は、増長する誹謗中傷に益々の倫理規制を強化せざるを得ず、上岡龍太郎氏が予言した、テレビがつまらなくなった理由と重なる。

マスコミも同じだ。商売なので、売れないものは作らない。作ることができない。低俗で下世話なもののほうが売れるのだから、仕方ない。現に、どのメディアにも、そういうものばかりが氾濫している。彼らを「マスゴミ」と侮蔑する前に、まず私たち大衆が、野次馬をやめ、高い倫理観、リテラシーを持つことが必要ではなかろうか。

さて、そろそろ自殺対策の実践の話をしよう。

第1の推奨は、まず、少しでもその兆候を疑えば、軽視せず、速やかに「医師」に相談すること。注意、どんなに親しくても、家族や友人でダメだ。彼らは結局、素人であり無見識である。「みんなそうやって頑張ってる」「お前も負けるな」「そんな大した事じゃない、大丈夫」という、正論や一般論を、悪意なく言ってしまう。これが、いけない。

それを受けて「そうか、そうだよな」と放置すると、そのうち「心が」「疲労骨折」する。体はもとより、骨折は、そう短期間では治らない。だからけっして、悩みを曖昧にし、誤魔化し、自分を偽ってはいけない。精神科の初診予約は1ヶ月待ち、人気の病院はそれ以上が多い。まず、内科医に安定剤を処方してもらい、同時に、良い精神科を検索し、予約し、待つ方法が良い。ゆめゆめ、精神科を受診する日まで放置してはいけない。

第2の推奨は、3段階になる。そして、病か否か、病の前後であるかに関わらず、普段から実践すべきと考える。

①まず、ツラい時はツラいと、声に出して「認識」すること。
②次に、ツラい環境から「移動」すること。
③最後に「自分の考えを改める」こと。

注意、②と③を混ぜて「環境を改めよう」と考えてはいけない。それは逆効果だ。あくまでも「移動」するだけだ。事実、それが私の実体験かつ失敗談であり、うつ病に至った原因の一つだ。

環境を改めることに関し、もう少し詳しく。環境とは、家庭や職場、はてはこの世界だろう。絶対に無理とは言わないが、修羅の道だ。なぜなら、まずその環境を改変するというのは、更地に家を新築するようなゼロ・スタートではない、のではなかろうか。多くの場合、既に建物は存在し、中は家電家具ゴミで乱雑無秩序で、それらを併せてキレイに整理整頓、増改築するという話だろう。その計画を立てるだけで、めまいがしないだろうか。

またそれを、あなた独りで行うのか。その場所を共有する、全ての人々の同意と協力が必要だ。つまり環境には「自分以外の他人の想い」が構成要素として併存する。有名な言葉だが、馬に水を飲ませようと水辺へ連れて行けても、そこで水を飲むかは馬しだいだ。他人の心とは、自分の影響が及ばない、及びにくい次元だ。物理的、精神的改善の両成立をもって、環境の変化は完了する。ほらね、分かってもらえるだろう。これは相当の苦労ではなかろうか。志を同じくしなければ、時間と共に元の状態へ戻る。その歯止めに規則を定めても、不満を持つ者、環境に残存しつつ逆らい続ける者の出現は予想に容易い。

ところで、表題の「死に至る病」とは、デンマークの哲学者・キェルケゴールの著作名であり、その病とは「絶望」のことだ。こそでは「3つの絶望」が提唱される。

①自己を知ろうとしない絶望
②自己を知るが、なろうとしない絶望
③自己を知るが、なれないことに憤り非本来の自己になる絶望

例えば、③の代表例は、映画『STAR WARS』のアナキン・スカイウォーカーことダース・ヴェイダーだろうか。正義でありながら、妻の死を怖れ、それを救うために悪に傾倒し、師匠に失望し、しかし妻は死に、もはや帰る場所をなくした。特殊な例ではない。ネット上で中傷を繰り返し、悪気を持たない確信犯も、これにあたる。①と②は、善良な大多数の凡人だ。②にあたるのが、上記までに説明してきた、悩みを認識し、向き合うことから逃避している人たちだ。①の人は、日常の感覚的な快楽に満足している。私はこれを「日常に溺れた人」あるいは「日常に飼い慣らされた人」と呼び、かつて私自身がそうだった。ただし、快楽はあるが、それは刹那的であり、自己実現への虚無感は拭えない。そのために見栄を張り、自分より下等と思える人物を批判、嘲笑して優越感を得た。③同様、ネット上で悪さしているのが、この①の人たちだ。

ちなみに、私はうつ病になってから癇癪が癖になった。他人に対し、平気で怒るようになった。ある日、人気の焼き鳥店で、長蛇の列に並び終えた後、品切れに激怒する中年男性が私の前にいた。まくし立てるので、店員さんもテンパっている。私は「おいちゃん、そう怒りなさんな、混んでんだから」と、低く声をかけた。まさか、そんな説教されると思わなかったのだろう。彼は借りてきた猫のように大人しく、丁寧な対応になった。彼は、まるで私がそこに存在せず、先ほども何もなかったかのように、私に目も合わせない。立ちくらみの転倒防止に、ステッキを持つ私は怖いか。それとも自分を恥じているのか。この中年男性のような人を、私は「強ぶった弱者」と呼ぶ。

弁証法として逆説だが、人は希望があれば、死なずに生きていけるのか。私は、病中に2回、自死に「かすった」。誰しも、常ならず、多からず「死にてぇ」と思う時もあっただろう。だが「死んだほうがマシ」と「死にたい」は、明確に異なる。私はインドで食中毒を3度起こし、激痛と瀕便のあまり「死ぬ」と思ったが、うつ病の中で抱いた「死ぬ」は、それとはまったく違うものだった。だが、死にたくなかった。理由は2つ。1に、まだ成し遂げていないクリエイティブがある。2に、置いていけない人たちがいる。以上だ。

他にないのか、仕事の責任とか、奨学金の返済債務とか。そんなもの、私の命と健康に比べれば、道端に落ちた毛虫のクソほどの価値もない。まだ、そっちのほうが肥料として価値がある。奨学金は人生最大の後悔だが、良くも悪くも、私をカタギの道に留まらせている足枷、リミッター、ラーフラだ。感謝している。だから、生きる希望ではないが、完済を目指している。

奨学金は、生活費だった。だから大学時代は一切バイトしなかった。若い貴重な時間を、時給たった数百円で安売りしたくなかった。成人式で、既に就職した友人と、人生の春を謳歌している自分を比べ、さらに強く感じた。もし19歳、20歳に戻れるなら、あなたならいくら出す。そういうことだ。でも結果、新社会人当初、だい〜ぶ苦労したので、ある程度バイトで社会経験を積むべきだ。何事も経験は早いほうがいい。成し遂げるべき歳までに、計画と準備をする時間を確保できる。

私は、時間を無駄にすることがあっても、経験は無駄にならないと考える。たとえ退屈な単純作業のバイトでも、1年目と2年目では捉え方が違うだろうし、そうでなくてはいけない。ただし、見切り時、期間を定める必要はある。だから経営者も「いつまでもあると思うな義理人情、そしてやりがい搾取と低賃金労働者」と戒めたい。借金は悪だ。ギャンブルや、ギャンブル的な投資のための借金など、もってのほかだ。だが、借金のない奴は、私に言わせればチャレンジが足らん。

ここで、仏教の言葉を引用しよう。曹洞宗の開祖・道元曰く「生(しょう)を明らめ、死を明らむるは、仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり」と。

まず、私の宗教観について先に述べるが、私は神仏を尊ぶが、頼りにしない。だから例えば、ブッダを「お釈迦様」とは呼ばない。あくまでも歴史上に実在した人物と扱う。また、仏教であれば原始、原理、またはそれに近いものは学問とし、その集団は学派や学団と呼ぶ。仏教は生死と人生の業界だが、これは戦争の業界で例えるなら、孫子、クラウゼヴィッツの理論と哲学と同様だ。そこから派生したものを、さらに研鑽された思想としては認めるが、思想を遠くに置き、存在しない人物や物体を崇拝し、また特定の人物や偶像のみへの崇拝に傾倒するものを、その是非や善悪は問わずに、宗教または宗教団体と、私は呼ぶ。

さて、この道元の言葉で注目したいのは、明確にするという意味で「あきらめ」と読む点だ。あきらめは、は挫折、逃避、失敗を思わせるネガティブな言葉だが、そうでもない。あらゆる不成功は、その後への科学であり、新たな出発点である。だから私は、漫画『スラムダンク』(井上雄彦、集英社)における「諦めたら試合終了」という言葉の「曲解」が嫌いだ。

諦めても、終了時間まで試合は続く。それは人生も、同じではないか。

マラソン選手の高橋尚子氏曰く「やっちまった」と途中で認識することで、選手は我に返り、パワーを発揮し、挽回できたりするという。前述の漫画のおけるキャラクター・安西先生はそれを指摘している。また、ブッダは「四諦の法」を説いた。これも「諦め」という語が使用(中国語で翻訳)されているが、内容はPDCA、改善ハウツーだ。その第1段階で重視されているのが(世の中の全ては)苦であると「認識」することだ。解決への道は、認識から始まる。そこに向き合わず、目を逸らすから、永久に解決しない。コートで立ち尽くして終了を待つのか。それとも終了前に棄権する、すなわち自殺するのか。

道元の言葉に戻るが、私は、我々の上の世代がしてきた葬式、死んでから、伝統と習慣だからなんとなく、自動的に戒名を授かり(買い)、仏の道に入る、という流れに疑問を抱く。死んでから何かを考えるなんて、果たして可能か。死んだらもう、どうでもいいだろう。

対して、生前戒名が再注目されている。これは最近できた制度ではない。例えば、武田「信玄」や上杉「謙信」は戒名だ。武士は、死に備えて予め生前戒名を得ていた。

人はみな、いずれ死ぬという契約の下に生まれる。それは人間に限らず、木や石、惑星といった森羅万象に共通する。早いか遅いかの違いだ。だから「死」というゴールに向かい、「生」という道程をいかに豊かに過ごすか、過ごせるように工夫するか。それは、生きているうちに行うべきで、死んでからでは無意味では。幸い我々人間は、動物や木石と異なり、それを考えることができる。

最近は、経営に困窮するお寺も多く、檀家との生前交流に積極的だ。死後にカネだけ攫っていく「ハゲタカ」ではなく、寺は我々に人生の教えを提供し、我々は寺に対価としてお布施する。このほうが、お互いに健全ではなかろうか。死んだ元総理の葬式代に1億円近い血税が、この非常事態下に使われるらしい。そのお金で、コロナ休業を苦に自殺した、練馬駅近くの老舗とんかつ屋さん、その他を救えなかったのだろうか。特定アジア諸国のミサイル防衛という安全保障に出資するのと違うぞ。死んだ、個人に出すんだぞ、税金を。どうなんだ。

長々と記したが、要は、気づく、逃げる、勉強する、この3つだ。その後で、リベンジなり、再チャレンジすればいい。

私は老師として、悩む人に「考えてごらんなさい。この広く大きな宇宙に比べれば、あなたの悩みは、ほんの小さなものです」とは絶対に言わない。本人にすれば、宇宙もピカチュウもなく、等身大の、1/1の純情な感情の空回りなのだ。だから私は、こう言う。

「貴様がごとき俗物が抱く、ちんけな悩みなど、とっくの昔の紀元前に、愚かなお前とは比べようもない、天才たちが既に経験し、解決し、記録している。だから歴史に「学べ」。学ぶことで、自分の考え方は改められる。鍛えられる。強くなる。豊かになる。健やかになる。そうして、あたなが夢と希望のために没頭できる何かを見つけよう。学ぼう、一緒に」と。

私の私塾は、そういう場所でありたい。

私と同じくうつ病に苦しむ皆さんは、なかなか大変だけど、10月も生き抜いて、給付金や手当金、ゲットだぜ!


秋の涼しい風が入り込む和室にて。合掌

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